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研究紀要

研究紀要:第28号(2012年)

執筆者 論題 要旨
髙久 智広 嘉永七年(一八五四)のロシア船来航と大坂船手頭の役割
―「大坂御船手目論見之図」にみる大坂船手頭の機能的限界―
 嘉永7年(1854)9月に起ったロシア海軍中将プチャーチン率いる軍艦ディアナ号による大坂湾侵入への対応は、幕末期における幕府の上方支配機構の特質を考える上で、非常に重要な出来事の一つである。本稿では、この時、大坂城代土屋寅直の下、大坂町奉行とともにロシア使節との交渉やロシア船に対する警備に携わった大坂船手頭に注目し、その役割と幕末期における権能の限界について検討するものである。そのためにまず、歴代の大坂船手頭就任者の補任状況及び、知行配置と役扶持給付に関する分析を行い、享保改革を画期として幕府官僚化していく姿を追う。またその上で、大坂船手頭がロシア使節に対する応接と警備にどのように携わったのかを検証する。そして次の異国船来航時の対策として大坂船手方が作成した「大坂御船手目論見図」の分析を行い、なぜ大坂船手方が神戸海軍操練所に吸収されることになったのか、その道筋を捉える。
小野田一幸 岡田春燈斎「大日本勝景一覧」にみる地理情報 本稿は、鍬形蕙斎の一枚刷りの日本鳥瞰図である「日本名所の絵」と、岡田春燈斎の手になる模倣版とでもいうべき同構図の「大日本勝景一覧」(天保11年刊)を素材として、前者の地理情報が、どのように後者に「継承」、そして「改変」が加えられているのかを探ったノートである。
両鳥瞰図の文字注記を拾い上げると、「日本名所の絵」に比して「大日本勝景一覧」では約三割が省略されているが、一部の文字注記については訂正が施されるとともに、城下の位置関係については錯綜あるいは修正がみられることが確認できた。また、各地に図示されている寺社などの構造物については、記号化が図られているものと判断できる点もあるが、構造物の特徴も一部図示されるなど、新たな情報を付加していることも看取できた。