Language | 文字サイズ  S M L

研究紀要

研究紀要:第24号(2008年)

執筆者 論題 要旨
勝盛典子 収録論プルシアンブルーの江戸時代における受容の実態について―特別展「西洋の青 ―プルシアンブルーをめぐって―」関係資料調査報告題 特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」(会期:2007年7月21日~9月2日)は、若杉五十八を中心とした顔料の科学的分析をともなう調査(『研究紀要第21号』に報告)と、その継続研究として行った2006年度の調査及び科学的分析を企画の根幹としており、展覧会図録に掲載した論文にはこうした調査の成果を反映した。しかし、紙面の制約もあり調査の全容報告には至っていない。  本稿は、2006年度に科学的分析を実施した資料について、結果を報告することを第一義とする。そのうえで、本研究によって明らかになった江戸時代のプルシアンブルーの受容の実態について総合的に考察し新たな課題を提起することによって、今後の研究の指針とする。
朽津信明(東京文化財研究所) 日本におけるプルシアンブルーの初期使用例とそれに関わる作品の使用顔料 1704年にヨーロッパで初めて合成された青色顔料であるプルシアンブルーが、日本でも18世紀後半頃から絵画作品に用いられたことを過去に報告していたが、今回はそれに関連した顔料分析を行った。具体的には、プルシアンブルーの初期使用作品における他の使用顔料、プルシアンブルーを初期に使用していた画家の他の作品での使用顔料、さらにはそれらの画家との関連が指摘される別の画家たちの作品における使用顔料について調査した。その結果、新たにGaseoと藤堯年の作品にもプルシアンブルーの使用が推定された一方で、遺品顔料の分析からプルシアンブルーを所持していたことが伺われる皆春斎に関しては、作品への使用は確認されなかった。プルシアンブルーを使用していた画家の他の作品では、藍などの他の青色顔料による表現しか認められない作品も少なからず見出され、輸入初期の時代にこの顔料がどのように捉えられていたが伺われる結果を得られた。
石田千尋(鶴見大学) 江戸時代の紺青輸入について ―オランダ船の舶載品を中心として 化学合成された青色顔料プルシアンブルーPrussian blueは、オランダ名をベルレインスブラウBerlijns blaauw(ベルリンの青)と呼び、近世の日本では紺青と訳された。近年、プルシアンブルーをめぐっては、文献・絵画・保存科学など多方面からの調査研究がおこなわれており、18世紀後半には既にプルシアンブルーが日本に輸入され、各方面で使用されていたことがわかりつつある。本稿においては、プルシアンブルーについてオランダ船の舶載品を中心として、オランダ側・日本側の貿易史料を用いて調査・分析し、18世紀から19世紀にかけての輸入実態を提示検討の上、考察を加えた。
三好唯義 吉田初三郎の神戸市鳥瞰図について 吉田初三郎(1884~1955年)の描く鳥瞰図は、デフォルメされた地形と、美しく詳細な描写が特徴で人気が高い。確かにその通りなのだが、しかし、そこに描かれた事物の確かさを問う研究は、これまでになかった。本論では、神戸市図の中に描かれた事物を古写真や絵葉書類と比較したが、初三郎は実に丁寧な調査をし、地図中に記録保存していたことが判明した。結論としては、昭和5年夏の神戸市内にあった人工構造物を含めて、都市景観を広範囲にそして正確に記録しているきわめて貴重な資料といえる。また、不正確な地形描写に詳細な情報を含むといえば、江戸時代の刊行地図の特色だが、初三郎図を刊行地図の発達史上で位置づけることも可能だろう。
口野博史 資料紹介 布引徳光院出土の考古資料 古来名勝として名高い布引の瀧の東に位置する徳光院周辺は布引丸山遺跡として周知されている。この徳光院で戦前に発見された弥生土器と出土銭について報告する。  弥生土器は、かつて小林行雄が報告した土器が弥生土器の編年研究の基礎を形成する上で、学史上重要な意義をもつこと、当報告例は弥生時代中期後半を示すことが再び確認された。出土銭は、現状では神戸市内において、発掘調査による備蓄銭資料は知られていない。当例は市内の希少例であり、中世備蓄銭の大まかな構成銭種を示していることが明らかとなった。
塚原 晃 田善とテンセン ―亜欧堂系銅版江戸名所図における表現技法上の諸問題― 江戸時代を代表する銅版画家・亜欧堂田善は、その優れた観察眼と斬新な造形感覚で、多くの江戸名所風景を銅版画で制作したとされている。その中でも、「アサクサヲクヤマ」「ミツマタノケイ」などのカタカナの画題と「アヲヲテンセン」などと画家名を記した大形の江戸名所風景シリーズは、田善の風景銅版画の傑作として知られてきた。ところが近年、その中の一図「アサクサヲクヤマ」の鑑識を疑問視する説が出された。これを受けて本稿では、表現技法上の観点から、亜欧堂田善の銅版画基準作と大形江戸風景図を比較した。結果、奇妙なプロポーションの人物表現、稚拙さの目立つ描線、独特なカタカナ表記など、基準作の作風とは相いれない表現を多数指摘できることが判明した。結論としては、これらの大形江戸名所銅版画を制作した「テンセン」なる人物は、亜欧堂工房で田善のごく近くで銅鐫に関わった人物で、田善本人とは異なる意図や趣向のもとに、これらの銅版画を密かに作っていたと思われる。